朝4時40分 起床
きょうは日曜日、きのうの高校野球の興奮さめやらず、カンパ~イ、そ、そ、そうか、40年ぶりの興南旋風だったのか。中学時代の、40年ぶりの興奮と、おいら、またまた遭遇したわけだ。(笑い)
思い出すと、当時も、なあ、夏の深紅の優勝旗が、海を渡ってオキナワに来るか、などとマスコミが大騒ぎだったけれど、生きているうちに実現しちゃったね。(笑)しかも、春夏連覇で。
むかし、おいらの高校も、同級生が甲子園春の大会に出場したことがあるけれど2回戦どまりだった。出場しても、たいがい一回戦で敗退するのが沖縄のチームだったけれど、その後、豊見城高校や沖縄水産高校などが、よくがんばってベスト16の常連、ベスト8へちょくちょく顔出てたもんなあ。いつの間にか、甲子園球児にあこがれて全国から野球留学して沖縄へくるようになっていたようですね。
で、地元新聞をよむと、どこもかしこも、野球フィーバーしています。しかし、小さく、「悲劇から66年、対馬丸の慰霊祭」という記事があった。こちらは66年ぶりの悲劇との遭遇ですね。どっちにしても、甲子園の深紅の優勝旗が学童疎開船が沈没した海を越えてくるところに意味があるのではないかなあ。
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対馬丸慰霊祭(対馬丸記念会主催)が22日、那覇市若狭の「小桜の塔」で行われた。66年前の1944年、米軍潜水艦に沈められた対馬丸の犠牲者を追悼した慰霊祭には、生存者や遺族ら約350人が参列した。
慰霊祭では、対馬丸の生存者・上原清さんが昨年、鹿児島県悪石島の沈没地点で開かれた海上慰霊祭の様子と自らの思いを詩の朗読を通して報告。上原さんが持ち帰った沈没地点の海水4リットを遺族関係者らが鎮魂の思いを込めて、犠牲者の碑に注いだ。
その後、遺族らや参列した関係者が、平和の願いを込めてを込めてオオゴマダラを大空に放った。
記念会の高良政勝会長は、犠牲者への哀悼の意を述べた後、「遺族も高齢化が進み、少なくなってきている。設立6年になる対馬丸記念館を通してこれからも平和の尊さ、戦争の残酷さや不条理を訴えていく」とあいさつした。
数少ない生存者の一人である儀間真勝さん(77)=那覇市=は「3日3晩いかだにつかまって、何とか生き延びた。その時はとにかく水がほしかった」と当時を振り返った。昨年の海上慰霊祭では、持参した真水を海に流し、犠牲者に捧げた。「この水でのどの渇きを癒してほしいという思いだった。弔うことができて心が軽くなった」と話した。 【琉球新報電子版