朝5時00分
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あっ、そうなんだ、いやね、浦島太郎とか、鶴の恩返しとか、その昔話の根底にある昔の人の思考法は、なんだろうと、かねてから疑問に思っていたわけね。そしたら、これって、「放生会」なんだ、といまさらながら感心したわけ。
「ほうじょうえ」って、秋や春の収穫時期に、生きとし生けるもの、放つ、わけでしょう。魚なら放生池に放つ。亀がいじめられていたら、それを買い取って、海へ返してやるし、キズついた鶴が死にそうだったら、これを治療し助けてあげる、それって、あれだよね、殺生戒律、いや、殺生戒でしょう。仏教の。
それが神仏習合で、神社や寺に、神事として今に引き継がれている。そして民間には、昔話として流布しているってわけ。たとえば◎◎放生会というのが、祭りとしては博多三社祭とか、そんな感じ。つまり、命を助け合う、これが根底なんだね。「命ぬ宝」ってやつ。
浦島太郎の面白さは、助けた亀につれられて乙姫さまのところで祝福されて、もとの漁師村へ帰ってみたら三百年、経ってしまっていた。まわりは見知らぬ人ばかり、景色も変わってしまっている。限りある命を余計に生きてしまったがゆえに、経験したこともない世界、<孤独>をあじわってしまう。老いた悲しみの究極を味わってしまう。
鶴の恩返しでは、豊かな生活が、得られている。しかし、それはつるの身を削って作られて反物によって手に入れた金の上に築かれているが、ある日、その反物が鶴の身を削る犠牲の上に成り立っていることがわかって、豊かさの基盤を失ってしまう。自然を犠牲にして得られる文明の豊かさの行く末を案じもするが、それより、女の命を削って生きている愚かな男、って言うふうにも、とれるから、いわば、女の涙を食い物にしているわけ。従軍慰安婦の問題も、じつは、女の血と汗と涙の上にあるということが、庶民の思考の中にはあるわけさ。
それにしても、男っていうのは「享楽」「豊かさ」を求めていく愚か者なんですね。女っていうのは限りある「時間」の中で身を削って「奉仕」している。
どちらも「命」の、別なかたちのありよう、なのではあるが、それを社会システムがりようしようとしたところにも目をむけなければ、ならない。