朝5時00分 起床
気温華氏32度、摂氏0℃
まんまるの日の出です。こういうの元旦に見たいですよね、ことしは七日遅れで出ました。
あけもどろの華です。
あかねいろが華やかです。「あけもどろ」というのは、沖縄の神謡<おもろそうし>に出てくる名称で、神女が日の出を形容することばですね。
天に鳴響む 大主
明あけもどろの花
あれよ みれよ 清らやよ
天地鳴響とよむ 大主
(『おもろさうし』巻13-851)
さくやの寝酒ならぬ、寝読書は、丸谷才一さんの「笹まくら」。文章の書き方お勉強。現実のいまから記憶の過去へ、ふーっと、いつのまにか、そして、ふーっと、もとにもどってくるし、短い文章を句読点めいかくに打ったかとおもうと、句読点なしの長々の文章へいったり、かなり意識的な手法で書いていますね。
それがストーリーを追っかけている、つうか。文体が追っかけているなあ、ストーリーを。これどっかで見たことがある。めぇ、めぇ、おやぎさんの小説。ジョイスだ。解説の川本三郎さんのご指摘の「すきま」説も、どんぴしゃり、ですね。そ、そ、そーだよ、「ベン・ケーシー」、かれもそうだった。医者の逃亡者、化外の人。大昔から各地を旅する化外の職能集団というのがあった、小野神を祭る人々もそう。
たぶん、丸谷才一さんはバージニア・ウルフみたいに、近代的な意識の流れにいるのではなく、人々の共通の思考の伝統の流れの中で、書きたいことをかいているだけ。そこが驚異だ、たぶん。つまり人々の無意識のグランドに杭を打ちつけていて、ふっと、気がつくとそれは社会にあったかつての必要とされる包容力、これをたぶん、川本は「すきま」と見ているのだろう。たとえば、社会からの「逃げ込み寺」、俗の及ばない「聖」域とか、そういう無意識へ杭を打ちつけていく。
「ベン・ケーシー」は、ニポン人がみると、自らの伝統の無意識の中で見るから、「すきま」を生きていくドラマとしてみる。けっして犯罪者の逃亡物語だけでない、共感があるのだろう。じっさいはアメリカに「ベンケーシー」のような旅をする職能集団あったのかな、あったからドラマの主人公が医師であるのかもしれない。
あれよ みれよ 清らやよ 明けもどろ・・・「化外」から境界を越えて見えている文学の表現ですね。ああ、眩しい。(笑)