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『通説では、国宝名称にあるように源頼朝・平重盛・藤原光能の肖像画とされ、12世紀末の似絵の名手藤原隆信の作とされているが、1995年に頼朝像は足利直義、重盛像は足利尊氏、光能像は足利義詮の肖像画であるとする新説が発表され、以後、像主・成立時期などをめぐって論争が続いている。』(Wikipedeaより) おきなわの百姓家のどの家にもこれと似たような肖像画があったなと、ふと思ったので引用した、もちろんそんな立派な歴史にのぼるような絵ではなく、むらむらを絵描きが巡遊して似絵を描いてまわっていた記憶の絵である。一家の主は、巡遊絵描きに肖像画を描いてもらって二番座の敷居のところに飾ってあった。いくら支払っていたかは分からない。唐旅準備の一つだったかもしれない。亡くなるとその絵が遺影となってトートーメーに飾られていた。魂は「唐旅」に。 しかし、考えてみると、唐の影響というのは、じっさいには三山統一以前の豪族林立時代から離脱しているし、ヤマトにおいても「遣唐使」などやめちゃっていたからその後のヤマトは独自の文化を形成し先鋭化し始めたとアンドレ・マルローなどが言っている。オキナワは、三山が統一されてそれからあらためて明(そのまえに宗・元とあるが)と交易をはじめるが人々の意識下には、まだ唐が生きていた。だから言葉として「唐旅」を脈々とその後も生き続けていく。戦後、「唐の世からヤマトの世、ヤマトの世からアメリカ世」と時代の流れを歌うが、9世紀10世紀の記憶がいまだに脈々と流れているというのが沖縄なのだろうか。この「似絵」をみていると、沖縄では、ふと、遺影になる肖像画を思い出してしまった。さいきんは写真プリントから拾って遺影にするが、それも、「似絵」の伝統なのだろう。個人の遺徳と、魂の救済を、共同幻想していたところに「肖像画」すなわち、「似絵」にせえがあったかも。 なんで意識下に脈々と唐がながれているか。沖縄人もさることながら、ヤマトの状況もそうであると邪推する。さっこんの東アジアの中国、韓国との関係は、さかのぼって「唐時代」の白村江の戦いまでさかのぼっているかも。あれは、唐・新羅連合と、ヤマト百済連合の戦いであったし。つまりヤマト文化の源流も、ウチナー文化の源流も、漢民族でない唐の時代までさかのぼると考えたならば、大野晋氏の言語説の源流まで視野が広がっていく。大野氏は、日本語の源流を古代タミル語にあるとしたクレオールタミル語説を掲げていた。ん? だけどね、仏教の源流をインドまでさかのぼる必要はないというのがマルローさんの意見でもある。「唐」を離れた時点で独自の文化形成に動きはじめていくヤマトだから上の肖像画の出現がつまり藤原隆信に修練されていくところが新しいうたの文学の幻想なのかもしれない。浮世絵が日本絵画なのではない、「似絵」にさかぼれ。 つうわけ。 アンドレ・マルローさんの説では、日本文化の源流をなにも漢民族(中国)に求めていく必要はないという説のようだ。そう考えるとそのごに、平仮名がつくられ、歌が発達し、独自の文化文学形成に動き出していく列島である。おきなわはその時代の独自性の影響を受けていく。
by higatatsuo
| 2013-10-15 08:09
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