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資料引用:weblio シマ社会
: 見出し :シマ社会⇒シマ社会(シマしゃかい)とは、沖縄県及び奄美群島における地域社会を表す言葉である。本土におけるムラ社会に相当する。 概要 沖縄方言で「シマ」とは、「島嶼」という意味の他に「村落」をも意味していた。そのため、必ずしも離島のみを指していたわけではない。 琉球王国の時代までは、御嶽を中心とする地域共同体を形成し、地域の祭祀を通じて同じシマの住人としての帰属意識を持ち、価値観や経験を共有していた。 明治時代以降も基本的な枠組みは維持され、現代に至っている。 シマ社会の功罪 シマ社会は、本土の地域社会と比較して、独自の財産(法律上の位置づけは財産区や地縁による団体)を持ったり、「字史」の編纂などを盛んに行うなど、今なお強固な結束を誇っている。 その一方、他郷者に対しては極めて閉鎖的・排他的で、他郷者に対する差別などが厳然として存在している。またシマ社会内部に対しても極めて抑圧的で、かつては村の掟に背いた者や気に入らない者をリンチして殺害する事件が度々発生(サンシー事件、具志頭制縛致死事件、糸満町集団殺人事件を参照)するなど、本土の村八分どころではない暗部も多く抱えており、沖縄文化圏独特の排外主義の側面をもっていた。このような閉鎖的な社会を嫌う者の中には、「せめて死んだ後は、(シマ社会に囚われない)気の知れた仲間と一緒に葬られたい」という趣旨で「模合墓」という墓も出現している。 こういった暴力的背景から、現在でも「シマ社会の総意」に反する言動をとることは、まさに命がけの行為であり、現代沖縄社会に微妙な影響を与えている。ただ人的交流の深化や情報化社会の進展や価値観の多様化といった時代・社会の変化に伴い、過去に比べるとその弊害は薄れつつある。特に那覇市をはじめとする都市部では影響が薄い。だが農村部では他郷者に対しての差別は残っている。 シマ社会による人権侵害の例 沖縄県人を除く日本国民・アメリカ人 反日・反米の極左の視点からすると「強者」とされるが、圧倒的多数が沖縄県人で占められる沖縄県においては、まぎれもない社会的少数者である。過去から現在に至るまで、これらの人々に対する蔑視や差別が行われている。特にアメリカ人との混血児(アメラジアン)に対するいじめや差別が続発し、アメラジアン(例えば羽賀研二など)の人格形成に微妙な影を落としている。差別者は「反基地感情」「反米感情」を盾に自らの差別行為を正当化している。また復帰前は反米暴動(コザ暴動など)が度々起きており、暴動の発端となった不逞アメリカ人だけでなく、通りがかりのアメリカ人にも暴力を振るったりしている。 ハンセン病患者 戦前、沖縄県のハンセン病罹患率は他府県よりも高かったにもかかわらず、沖縄本島には癩療養所(現在の国立ハンセン病療養所)は一か所もなかった。というのもハンセン病患者に対する差別が熾烈を極め、療養所を設置しようとする沖縄県当局やハンセン病患者に対する反癩暴動(嵐山事件)すら起きているからである。1938年(昭和13年)になり、ようやく沖縄県立国頭愛楽園(現在の国立療養所沖縄愛楽園)が設置された。 奄美住民 戦後、奄美群島が沖縄県に先駆けて1953年に本土復帰を果たした際に、所属政体の変更に伴う参政権の喪失や公職追放に止まらず、奄美住民に対する商取引の拒否や民間企業からの締め出しなどの差別が公然と行われた。沖縄マスコミもこれらを煽る報道を行った。 有能者 内間金丸(後の尚円王)は伊是名島の出身であるが、都の首里に赴いたのは一旗揚げて故郷に錦を飾るためではなかった。彼は両親の死後に農業に携わっていたが、刻苦勉励を重ねて不作知らずの収穫を上げてきた。それを村人が妬み金丸を殺害しようとしたため、間一髪島から脱出したという。そういう経緯から、後に金丸が王位に就き第二尚氏王統が始まった後も、尚家は伊是名島に冷淡で、 両親のために伊是名玉陵を設けた以外は特に何もやっていない[1]。またロンドンガマの逸話にもみられるように、漁が得意で女性にモテた漂流者を妬んで殺そうとする話があるなど、優秀な人物であってもそれに嫉妬していきなり殺害しようとする気質が今に伝わっている。 引用:アメラジアン(Amerasian)とは、アメリカ人とアジア人の両親を持つ子供の事を指す。 この語は『大地』などで知られるアメリカ人作家パール・S・バック(Pearl S. Buck)が1960年に最初に使用し始めた。彼女は「パール・バック財団」などの組織や施設を建設し、米兵と現地女性との間に生まれた子らの救済に奔走した。この語は後に、アジアに派遣されたアメリカ合衆国の軍人などとアジア人女性との間の子を指す語として、アメリカの移民や帰化の部局で正式に使用されるようになった。第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争で数千数万のアメリカ系アジア人の子供がアジア諸国や太平洋の島国など各地に誕生し、その多くは混血児として各国のマイノリティとなり、時には差別の対象になった。日本(特に沖縄県)、韓国、タイ、ベトナム、フィリピンなどに分布し、特にフィリピンには多数のアメラジアンが暮らしている。 日本では、1998年にアメラジアン・スクール・イン・オキナワ(AASO)が開校したことで沖縄県の文脈で用いられるようになった言葉であり、在日米軍の米兵と地元女性との間に生まれた子供たちのことをいう。 米政府による公式定義 アメリカ合衆国司法省移民帰化局(Immigration and Naturalization Service、INS)によれば、アメラジアンとは 18歳かそれ以上、または自立した未成年者、またはこれらからの請願について外国人として処理される人物。1950年12月31日以後1982年10月22日までに朝鮮、ヴェトナム、ラオス、カンボジア、タイで、アメリカ市民を父として生まれた人物 のことである。(INSへの指示 第360号書式、「アメラジアン、未亡人、特別移民者への請願について」から) アメリカ合衆国によるこの公式定義は1982年の連邦議会での法案(Public Law 97-359)の結果によるものだが、アメリカ内では現在すべてのアジア系アメリカ人を含めて考えることも多い。 米兵とアジア人女性との子ら もともとの定義では、アメラジアンはアジアで生まれた米軍人と現地人間の子供である。また、父がアメリカ人の沖縄県で生まれた日米に出自のある子供、父が朝鮮戦争時の米軍兵の韓国で生まれた子供なども含み、後者は1960年代にアメリカのテレビで人気を博したソープ・オペラ『Love is a Many Splendored Thing』(1955年の映画『慕情』のスピンオフ)に見られる。その他、アメリカ統治時代からベトナム戦争にかけて長い間大勢のアメリカ人がいたフィリピンでは大量のアメリカ系フィリピン人が生まれた。ベトナム戦争時には米軍の基地となったタイや南ベトナムでもアメラジアンは多い。アメリカが統治したり基地をおいた太平洋の島々におけるポリネシア人やメラネシア人、ミクロネシア人に出自のある人もアメラジアンとみなされることはある。 アメラジアンは多様な人種・民族からなっているが、メスティーソやムラートなどと同様に、ある種の共通した出自を持つ人々に対する定着した語となりつつある。アメラジアンの母がアジアのさまざまな人種・民族からなるのと同様、アメラジアンの父もさまざまな人種・民族系統からなる。 差別と不安定な立場 アジア諸国は人種的に均一な国が多く、アジアの外からはアジア人は混血児に対して排他的とのステレオタイプ的解釈がなされることもあるが、アメラジアンへの処遇にはより複雑な面がある。アジアが貧しかった時代、朝鮮戦争やベトナム戦争当時は、アメリカ兵が出入りする店で働く女性を現地妻とするアメリカ兵もおり、そこから多くの子供が生まれた。このため、アメリカ兵相手の商売をする女性への偏見が、アメラジアンと称される子供への差別につながった。またこの差別は、貧しさのために多くの女性が豊かなアメリカ人になびいたという現地の住民感情にも結びつき、母の職業がどうあれ米亜混血児全体に拡散した。 豊かになった1970年代以後の日本でも、米軍人との子を産んだことで母子が実家や親戚などから責められたり、社会に広がる反基地感情や反米感情の矛先がアメラジアンにむけられることもある。差別される子供は地元の子らと外見が違う事がいじめの対象となりうる。 日本では、1984年の国籍法改正までは子の国籍に父の側からだけ認める父系血統主義をとっていたため、父の所在の分からない子供たちは一様に無国籍児となっていた(同年、母の側の国籍も取得できるよう父母両系に改正されたため解消)。沖縄県では、父が米国などに転勤して子供が母との暮らしをしている場合、国籍がないために教育を受けられないケースもあった。また、父と同居している場合は軍から基地内で教育を受ける援助が与えられるが、父が離れると軍の援助が停止され、教育費が高く学校に行けなくなることがあった。父が米国に別の家族を持っているため渡米しにくい場合もあり、また日本語ができず義務教育で地元の学校に通うことのできない場合や、いじめが原因で地元の学校に通えない場合もあった。このため民間のアメラジアン向け学校が誕生し、こうした活動を受けて、地元自治体や日本政府も民間学校へ援助を行ったり義務教育扱いにするなどしている。 多くの国でアメラジアン支援のための運動や組織もあり、アメラジアンのアメリカ移民も続いている。一方でアメラジアンの中には(特に父が白人などの場合、フィリピンやタイなどで)俳優として人気を博する者もいる。
by higatatsuo
| 2015-01-06 06:50
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