朝4時00起床
睡眠不足、いつもより1時間程度短い。夜中じゅう、ごそごそして料理したり、かたづけしたり、家人の「労働」に、あっしは高いびきのはずなのですが。気になって気になって、しまいには寝ちがえて、クビをギィクッと、うなじから左肩にかけて筋肉痛の状態で、出勤。
今朝の気温、華氏49度、9℃、湿気がなくさわやかなんですが、気分はブルー(古いギャグですね)なんですが、けさは青空ですよ。朝日がきれい。
夕べは、「転換の書 メ・ティ」から、考えるとは何かを読みました。短いので引用。メ・ティは教えた――考えるということは、人間が人間にたいしてとるひとつの振る舞いかたである。思考がそれ以外の自然とかかわるのは、ずっとわずかでしかない。というのも、ひとはつねに人間を経由して自然に近づくからである。したがって、どんな思想にさいしても、それらの思想が向けられた人間たちが探求されねばならない。そこではじめて、思考の有効性が理解されるのである。
まあ、現代では、これに、ガガーリンの感動<地球は青かった>という視点を付け加えなければなりませんね。その上で、されど、わが日々、でしょう。・・・地球の外から「眺める」視点が獲得されたのは、メ・ティ氏から20年後なので。ところで、人間が人間に対するひとつの振舞い方、それが<考える>ことといっているのですが、ほんとは、ここに<他者>との出遭い、相手の<顔>そのものとの正面からの対峙がなければならない、それが欠けていると思うのは、わたしだけでしょうか。具体的な「振る舞いかた」というのは、<他者>との対面と置き換えねばねえ~。・・・・というのは、あっしらは共同体的な守護のもとから脱皮して自立という孤独の旅へ出はじめてヨチヨチ歩き始めたのは60年代くらいからでしょう。個としての振る舞いかたに出くわしたのは。メ・ティ氏は、たぶん、この個の自立を前提に言っているのだろうからね。
あっしらは60年代までは、農村的共同体の中で、70年代には産業社会的な終身雇用の中で、80年代からは消費型孤独の中で、というように徐々に、共同体的に保護されていた自己から脱皮しつづけてきたんですからね。近代がおわって、個の自立というわけのわからん闇の中に立っている。揺らいで不安で不測の状態。そこから近代を振り返っているというわけだ。