朝5時00分起床
気温華氏65度、16℃、7時前に激しい通り雨がありました。その後は、蒸し暑さが倍増して、座っていても額にジワーッと汗を浮かべるようになりました。
夕べは、「転換の書 メ・ティ」から、ミ・エン・レー(レーニン)の慈善が頼りについて、読みました。短いので引用します。「ミ・エン・レーは,追放のあいだ、冬じゅうずっと窓から小鳥たちに餌を与えていた。かれらにはこれが頼りなのだ、とかれはいった。食べるものは何もないし、協会をつくることもできないから。」・・・・
何気なく読みすぎていく文章ですが、今日の「福祉政策」の面から、立ち止まって読みますと、びっくり仰天境地ですね。だって、<協会>というのを、非営利民間活動団体とか、ボランテイア活動団体と読み替えますと、今日ある福祉国家の土台としての参加型福祉社会へと一直線につながるではありませんか。窓際で小鳥にエサを与えている個人から、これを団体としてするという逆読みが可能ではありませんかね。
施しや無償の対価であった<慈善>という行為に、社会的な価値を付与する。
理路としては、「公共の利益に従属させる私的利益」を見出した。あっ、逆だ。、「私的利益を公共の利益に従属させる程度を見出している」という風になるのではありませんか。これは、まぎれもなくレーニンの考え方だと思うのですが。だって、革命直後には、土曜労働という、報酬をあてにしない自発的な労働ボランテイア活動を奨励して、地域社会で公共のために働くことを<偉大な創意>と高く評価したではありませんか。・・・あっ、また、嫌なこと思い出した。自衛隊のイラク派遣の国会議論の中で、究極のボランテイアが徴兵だ見たいな事いっている主張がありました。自衛隊も、人権活動で、派遣されるのだからボランテイアに変わりないとか、そういう理路でしたね。公共性という言葉をつかうとクソもミソも一緒くたになる。曖昧化して起源を見えなくしてしまう。日本における社会主義の需要の仕方なのかもしれません。