朝5時00分 起床
気温華氏45度、6℃、風もなく、朝日もあがり、ちょっとポカポカ陽気、働きやすい日によりそうですね。深い朝モヤの東京湾ですが、漁船が出ています。遠くは見えません。視界2km程度ですかね。
視界不良といえば、頭がかたいと、いい発想は浮かびませんよね。ものごとというのは、そのものに、はじめて接するように先入観なしに、また思い込みなしに眺めたとき、その姿を、くっきりと、見せてくれるものですよね。くっきりというのは曇りのない目で見る<空白>ということですね、そこに流れ込んで満たした<事態>そのものが過去となり、空白の中に流れ込んでくる過程の<実体>が現在なんだと思います。
つまり、<空白>は、くっきりと未来とつながるものなんですね。
それの呼び込み方が、無垢の目というわけ、(そう考えます)。
官から民へという、現代の政治潮流を、この目でじっと眺めたとき、失われていくものがはっきりと見えてくる、このごろです。それにかわって台頭してくるのが<自己責任>ですね。
目に見えて失しなわれていく<万民のために>の発想というのは、いいかえれば、公共的な責任であったものが、個人の自己責任に多く分担されるということで、小さな政府の負担軽減にはなるのでしょうか。この万民のためにの発想の<責任>が、民間へ移行されることによって消えて、民間の、つまり自己責任というかたちに転移されるのではないかということです。
民間への流れというのは、公共という価値の概念が、大きく変貌するということですね。国民の生命と財産を守る基準価値が変わっていく。
建築確認の許可が市町村役場から、民間にかわって、震度5の地震に耐えられないマンションが建設されて、いま、その問題の<責任>の所在について、マスコミを賑わしていますが、もちろん設計、建築施主などに自己責任があるとしても、許認可という制度上の不具合から発生している問題についての責任は、だれがとるのだろうか。
だれも、責任は、とらない。欠陥のマンションを買った人が泣きをみる。それがじったいでしょう。生命、財産、福祉などの問題で、民間に移行できない価値についての議論がないことが、おぞましいなあ。