朝5時00分 起床
気温華氏53度、13℃、今朝は、きりですね。天気予報のお姉さんは、低い雲が垂れ込めています、という具合に報じていましたね。高圧鉄塔のあたまの部分がたしかに雲の中に隠れていましたよ。起き掛けに自宅の窓から見えた向かいの山も、吹き流れるきり・雲にかすれていましたね。
さて、考えるきっかけとなりそうな身近な話題から、一つ。せんじつ大江健三郎さんの「私という小説家の作り方」という、ノーベル賞作家の創作のヒミツを語った自伝小説を読みました。その中にくりかえし出てくるのが<ナラティブ>ということばです。たとえば、私のナラティブとか、ぼくのナラティブという具合に、多発しますが、なかなかその意味を明らかにしないまま話が進むので、とうとう読書しながら、いらいらして、単語の意味を辞書でひいてしまいました。
narrative : (現実の)話、物語、物語ること、話し方、話術、物語詩とか。
この本で、大江健三郎さんがキーワードとしている、この単語の用法は、<僕のナラティブ>・<私のナラティブ>という使い方なので、僕(ぼく)が、私(わたし)が、語る物語、その話し方という意味なのでしょう、きっと。その上で、かれの創作のヒミツを明らかにしているのだろうと思います。大江さんが、さまざまな世界の詩人たちの作品から刺激を受けて自らの<ナラティブ>を構築していった形跡がよく分かりますが、最後までわからないのが<僕・私>というその語りの主体となる<僕・私>、日本の伝統的な<私小説>の僕や私と、どう違うのでしょう。それが非常に分かりにくかった。それで考えたのが、次のようです。
たぶん、山の中の村に命を育む少年の中で、何かの経験が欠落しているから、それが明確にならないのだろうと思いました。繰り返して語られる首くくりの男が、何を意味するか。父の不在、父権の不在、天皇の不在、神の不在、それらが消えた世界にいる<僕・私>なのだろうか。もし、そうであるなら「ちょぼちょぼ人間」が、いらいらしながら読んでいたのもうなづけるような気がしますね。だって、そういう不在の世界って、まったくはじめて体験する世界ではありませんか。キリスト教からイエスが消えたようなものだし、イスラム教からモハンマッドが消えたものではありませんか。釈迦のいない仏教を語るようなものでしょ。きっと。
ぜーったい語り方の難しい世界だよね。そういうところに大江さんの小説はあるのだろうか。