朝7時00分 起床
気温華氏40度℃、摂氏4℃
朝寝坊してインスタントコーヒーを飲んでいると、福島から電話。
家人の従妹が福島へ嫁いでいるのですが、福島第一原発から30キロ圏内に近いから、一家を挙げて避難したいのだが、なかなか家を離れられないと。電話口で訴えているようす。
話を聞くと、その従妹の連れ合いは、来年、定年退職になるのを機会に、ちょっと早めに移転計画を実行したいという願望のようですが、
「旦那さんのお父さんが福島を離れたくないって言って、旦那さんはこまっている」と。
その従妹は、「義父さんも一緒に行こう」と誘っている。
しかし、その義父は、頑として受け付けない。屋内待機にも、なっていない地域なのだから、<まだまだ、大丈夫、問題ない>と、頑固に言うのだそうです。家族の説得にも、なんや、かんや言って、<腰をあげない>のだとか。
「野菜もできないし、家畜も飼えないし、山にもいけない」
「このままだと生活できなでしょう」と。
そういうことで、とうの、旦那さんの方は、移転計画を早めてでも、一家を挙げて妻の実家のある遠隔地へ避難したいとか、それで勤めている会社とも、かけあって、すでに早期退職で了承を得たとか。
そこまで準備したにもかかわらず、老いた家長の腰は、根が生えたように重い、のだそうだ。
一家をあげてその義父の説得に当たっているのだが、さいきんの老父は、「生まれ故郷を捨てたくない、いやだ、いやだ」と言いはじめているそうです。
「まるで、だだっこの子供みたいよ」という。
そんな電話口の話をききながら、オイラ、頭の中で考えたことは、
・東北沖地震の被害と、津波の被害だけなら、たぶん、従妹一家は、故郷を捨てようとは考えないだろうな、
ということでした。なぜ、彼女らは、いま故郷をすてようとするのか。
それは、天災のあとにつづいた<人災>そのものが精神的な打撃を与えてしまった、つうか、国敗れて山河ありでなく、精神へ与えた大きな衝撃は、国敗れて山河無しという「不毛な大地の故郷」化してしまったのではないだろうか。
彼女の義父が、故郷を離れたくない、捨てたくない、というのは、居ながらにして彼は<故郷を失ってしまった>ものだから、いまは思考力が止まってしまった状態、たぶん。
この状態は、彼の心の中から、すでに、「故郷は遠くにありて<思うもの>」に、変わってしまったから、もはや移転の必要がなくなってしまっているのだろうと推測する。それを後押しするのは、30km圏内をあと1kメートル広げてくれるだけで、ある決意で、故郷を捨てる覚悟になるのではないか、(というのである)。
人災は、天災と違って人を怒りにかえてしまう。なぜなら、自分の心の中に原因が確かな形で見えるようになるからですね、きっと。