朝5時00分 起床
気温華氏36度、摂氏2℃
あれから40年かぁ。
う~ん、あれってのは、コザ暴動のこと。
つうか、いつのまにかコザ騒動といういいかたもなされている。Koza Riotですよね。沖縄のニポン復帰が日米合意された1969年から、軍雇用員の大量解雇、毒ガス漏れ、軍属の酒おび人身事故など、世代わりの、最中におきた事件に、人々の怒りが大爆発した日、つうか、ベトナム戦争から帰還したり、一時休暇で沖縄に戻ってきたアメリカの兵士たちが溢れかえっていた最中におきた事件ですね。
ベトナム帰りの兵士たちのことを「山帰り」といって戦地で疲弊した米兵は、酒、薬物、女に飢えて獰猛になっていたし、それに公民権うんどうの余波が沖縄にもながれていて、黒人と白人の対立がすさまじかったよね。テル屋は黒人街、ゴヤは白人街、はっきり色分けされていて、どちらかの街に迷い込んだ若者の頭上に鉄拳の嵐が降り注いでいた時代だもの。
おいらは、ちょうど高校生だったし、バイトで黒人街の近くの映画館にいたので、奇声を上げてこぶしをつき合わせて互いに挨拶するブラックパワーの熱気に圧倒されていたよ。とうじ軍雇用員の大量解雇反対うんどうでピケがあり、ストがあり、そのたびに「コンディション・グリーン」とか、「コンディション・グリーンワン」が発令されて軍属の外出禁止令、民間地域立ち入リ禁止令が出た、それが出されるたびに、基地の町から米兵が消えるので、街のネオン灯に閑古鳥が鳴くようだった。
基地に依存して商売している人々は、ピケ破りに奔走したり、街宣車を出してスト妨害の虚に出ていた。ささいなことで、この「コンディション・グリーンワン」が多発されるようになって、ますます沖縄人同士の対立が激化していくばかりだった。テルやとゴヤの中間、中の街に、飲み屋街が集中していてここが沖縄人も通う飲食街で、Koza Riotは、ここで起きた。
基地に依存した周辺地区の経済が、沖縄人をいびつにし、経済発展をいびつなまでの構造にし、それがコントロールされる支配構造となっていた。ベトナムが激化した1965年から2年間のうちに1000件以上の米軍犯罪が発生している。1970年には960件、沖縄人の人権はないくらい侵害されて泣き寝入りの状態で、そこに、この対立をあおる、「コンデショングリーン」の多発発令だもの。だから、このKoza Riotは、とうしょ「コザ反米騒動」、別名、「コザ暴動」と呼ばれていたのである、それが、いつのまにか、「コザ騒動」となっているが、本質は、そういうことであると高校生だった、おいらにも肌に感じていた。