朝8時00分 起床
なんだかな~、断続的に寝ては目覚め、バタンキュ、また、よこらっしょ、ってな感じで、気がつくと八時、心身ともに、かろやかな、爽快気分。ヨーゼフ・ロートの「放浪のユダヤ人」をパラパラ。目についた言葉、「たしかに神は、各個人を通してしか正義を告知なさらぬというのも事実です。がしかし、この正義はまさにあらゆる人間の心の中に、別け隔てなく生きている。」
この句がパッと目についたので、さかのぼって前段をパラパラ、
「正義が多数決によって決められるようなところには、不正がはびこっています」
さらにさかのぼっていくと、「もし数じゃないとするとだね。何千もの人間がある日突然、これは正義だ、これは不正だと認めたのだ。そしてその日以来はじめて、正義と不正の両方が存在すようになったのだ」
つうわけで、問答は、「いや、違いますね」と、続いていく。よくよく読んでいくと正義男と不正な男の対話だった。なんで、こんなページが目にとまったか、たぶん、反原発10万人集会での大江健三郎さんのコメントが記憶にあったからに違いない。大江さんは、中野重治の短編「春さきの風」を引用、登場人物、母親のことば、「わたしらは侮辱のなかに生きています」を引用した。
なぜ、大江さんが「脱原発集会」で中野重治の初期短編「春さきの風」(1928年)を引用したか。短編の時代背景は「3・15」事件。権力を体現した人物たちの横暴の風が吹いていた。
そういえば、ロートは、数は正義じゃなく、権力にしかすぎないとも言ってたな、たしか。
で、おいら、考えた。やっぱ、ここは倫理的度胸(藤田省三、岩波争議に関連して)が各自に求められているのだと。それに基づく「オリーブの木」のもとに民衆の正義の体現が終結することがやっぱ求められているのかも、と。エリート官僚化した組合からの脱皮だね。