朝4時20分起床
夕べ変な夢を見ましたよ。倫理学や哲学などの古本をひとかたまり買う夢です。古本屋の女主人が曰く、「どなたが買われのるか興味津々だった」そうだ。「やっぱり、あなたでしたわね」と。わたし、えっへっへっへ、と照れ笑いしながら、「読みもしないのに、こんなの買うおとこなんですよ」・・・と自嘲する、わたし。
(へんな夢でしょ?)その古本の束は 昔、読んだことのある本ばかりでしたので、夢の中で書名まで出てきたはずですが、起きたら、ぜんぜん、覚えていない。あっは(赤面)。 なんで、こんな変な夢を見るきっかけとなったかと考えると、きのう、ふと、わたしが学校教育で学んできた学問(まあ、そんな大層なものでなく、お勉強ですね)と称するものは、古色蒼然たる、解釈学ばかりではなかったか、そんな気がしてしまったんですね。
顕著な例をあげますと、論語。すでに孔子・孟子の御世に完成された学問の理想を、いかに現実の中に有効に生かすか、そういった解釈の妙が<学問>であるかのように、教えられ、また、学んできたのではなかったか。逸脱する解釈は、学聖、孔子・孟子に反するということで零点の評価が与えられる。そんな学び方をして来たから、西洋の学問も、解釈のレベルで受容し、わかった気になってしまう。江戸時代の学問所の古学や儒学がそうだったし、明治のころの脱亜入欧の精神も、こうした解釈学的西洋の受容ではなかったかと、ふと、思っちゃったんですね。
たぶん、そんなことが頭の中にあって、夕べの変な夢になったんだろうと思います。それで、・・・・ん、じゃ、と一念奮起して、今朝は、孔子を別の角度から眺めてみようとおもいたって、フィンガレットの「孔子」、長谷川三千子の「からごころ」、白川静の「孔子伝」の三冊を大河に注文しました。夢の中の古本群は、まあ、初心に返って読みなおせ、というお告げでしょうか。