朝4時05分起床
夜明け前の東京湾は、鏡面のような水で、うっすらとキリが這っていました。小雨の降る中、職場へ出勤。くもり空が明るくなるころ雨はやみ、そのかわりムッとするような湿気を感じました。60年前のこの時期、沖縄では、どしゃぶりの雨の中で戦闘がつづいていたそうです。ヤンバルの福地ダムがオーバーフローするほど、降雨がつづいているニュースを見ながら、祖父のことを思い出しました。沖縄では、6月23日は、「慰霊の日」です。沖縄戦で亡くなった多くの御霊が、きっと、地下で、この降雨にたたき起こされ、60年前の空模様を思い出しているのかもしれませんね。あのとき、祖父は、右わき腹に被弾しました。ヤンバルの山の中を土砂降りの雨の中を被弾したまま逃げ惑っていたようです。弾痕のあとはそれとすぐわかる傷をのこしてわたしのような戦争を知らない世代にまで痛々しさを見せつけていました。
記憶といえば、わたしが高校生のころ、母屋とは別に、離れを普請するというので、基礎工事を行ったとき、土の中から不発弾が出てきたことがあります。昔、この場所は水牛や農具や野菜などを洗う小さな湧き水の出る、生活のための沼になっていて、沼は水道の普及とともに埋められたようです。
我が家は、一族の元屋で、戦前からある敷地なので、こういう井戸と沼をかかえた大きな百姓家のつくりでした。この井戸のある、湧き水のでる沼に、<バクダン>が投下され、そのまま不発弾となって埋もれていたようです。基礎工事をおこなっていた若い職人が、鉄の塊を見つけ、丁寧にドロを払ったら、電線コードのついた<バクダン>の形なので、もよりの警察署に届け出たら、「持ってくれば預かる」とのこと。1972年の祖国復帰まえの話しなので、バクダン処理班なんてそんな高度な機能が、まだまだ琉球警察の中にはなかった頃です。仕方なく、わたしの父親が、それでは、ということで、それを掘り出し、警察に届出るという段取りとなりました。いざ、掘り出しにかかろうとしたら、祖父が畑から帰ってきて話しを聞き、こういう危険は、年の順で行うもので、見たところわたしより年いった者はいないから、どれ、おまえらは遠く離れておれ、と鍬を息子(わたしの父)から奪い取り、<バクダン>を掘り出しました。それを10kmは離れている警察署まで、祖父を先頭に、一族の男たちがぞろぞろ後ろについて持って行きました。まるで老人の捧げ持つ献上物を命をかけてお上に運ぶ姿を、村の百性たちが行列つくって見守って行くようでした。慰霊の日は、この23日です。不戦を誓う行列には、この祖父の姿をわたしは見てしまうのです。父の父は、わたしの祖父ですが、何かが手渡されて来ました。