朝5時00分起床
気温華氏75度、摂氏23℃、相変わらず蒸し暑い熱帯夜が続きますが、ここ海辺の職場は、東京湾から吹く風があって木陰は涼しい。海風に、秋の気配を鼻がくんくん嗅ぎ分けるきょうこのごろです。小泉政権、凶暴ですね。反対派の急先鋒の選挙区に現職大臣を対立候補で立てるようですね。大衆は、こういう凶暴なやりかたに喝采するのでしょうか。陰湿で、老獪な政争を大人の世界の真実の姿として、子どもたちは見ていますよきっと。こういう学習が、子ども世界に持ち込まれていくのでしょうね。
先日の読書から。諏訪哲二さんの「オレ様化する子どもたち」を思い出しました。同書では、1985年ごろから「子ども自身が変わった」と論じています。これまでの子ども論は、社会が悪く子どもはそれに染まっただけという「無垢の子ども論」であったものが、実は、子ども自身の中に「ゆがみ」があると指摘する。主観がオレ様化して意識が自己主張し、孤独の世界にこもり、他者への絆を断ち切っている、それが特徴だそうであります。学ぶべき他者との関わりや獲得すべき共同性や協調性が、こどもらによって拒否されているというんですね。
こういう個人化した<孤独>の状況のもとで、凶暴化する。それが昨今の凶悪犯罪の低年齢化の一因ではないかと論じています。子どもたちが、なぜ、凶暴化するか。感情が切れて、暴発し、ものごとの見境を、見失うか、この断ち切れた意識は、どこに由来するものなのか。・・・・1985年ごろ、日本経済がバブルに浮かれていた絶頂の頃に立ち返ってみると、それはどうやら、人々の<かしこい消費活動>と核家族化と関係しているのではないか。個人がバラバラになるということは、商品の側から見ると、消費者が増えるということなんですね。一家で一台のテレビでよかったものが、一部屋一台、個人に一台という具合に消費が増大していく。一人でテレビ・ゲームに興じる子どもの孤独なうしろ姿は、しかし、緩和剤もなく、大人の社会に直接むき出しになっている姿でもありますね。だから、かれらは大人の政争を赤裸々に見ているのであると思います。この孤独をからめとるのは・・・・。と、ここまで書いてきて、あっ、「隠れん坊の精神史」(藤田省三)だ、と思い出して書棚をうろうろし始めました。子どもたちが、本来、学ぶべきことは、来るべき大人社会への準備、個人として社会から放り出される孤独の経験、それを共同体の人間関係から学んで成長していくことではなかったか。その経験をへずして、赤裸々に社会に直接対面しているのが今の子どもたちではないか。