朝5時00分起床
陽が上る前は、涼しい風が吹くようになりましたね。太陽がではじめたころ6時の気温、華氏77度、摂氏24℃でした。残暑のきびしいスタートです。地面にセミが転がっていたりトンボが飛んでいたり、夕べの十五夜は、大きくて、まん丸で、美しかったですね。久しぶりにお月さんを眺めていました。子どものころ、外灯のない、真っ暗な村の夜道を、歩いていたことを思い出し、お月さんがどこまでも自分についてくるのが不思議でした。月明かりの下に、ボーっと浮かぶ白い道や夕涼みをする人々の影を思い出しました。
それは、わたしの魂がうち震えて、小さく脈動する、極私的な記憶の映像です。
不思議ですね。
普段は記憶の奥に隠れているのに、急に何かが琴線にふれて、内部から表に現われ出てくるものがある。まるで膨大な出来事が沈む太古の泉から、抽出される体験のかけらのようです。それが飛び跳ねてキラリと光ってくる。自分でそれに驚く。
しかし、まてよ、と思う。成長期の子どもなら、逆じゃないか。もともと子どもには、現実に有用な理想形が完璧に完成してあって、それが太古の泉のように命の内部に隠れていて、一つ一つ剥がしながら、どの子も成長していく。完璧に剥がし終えたら、もっとも理想的な人間像があらわれるはずなのに、ほとんど、途中、挫折するか、剥がしきれないでいる。
この剥がしきれない、何かをかかへたまま、ついには、その内部の何かが動いたり、ゆれたり、振動したりして、自律的に運動する。だが、それは太古の人類の記憶を含んでいるために、極私的な記憶の映像には、なおも映らない。夕べ読んだ「転換の書 メ・ティ」の中の<善意>については、そういう思考の再構築をしないと分かりにくいものがありました。善意の有害、良心の有害について、それを問うことは偉大な方法に近づくことなのかもしれません。