朝4時00分 起床
散歩。きょうの予定は、なんて考えながら歩く。通称、マザーリーフというセイロンベンケイソウの葉っぱから、芽が3本出て、それぞれに根がついたので、きょうあたりプランターに移植することにしようか。それには腐葉土がいるので、裏山に採りにでも行こうか。
そんなこと考えながらの散歩です。きのうの興奮がいまださめず、5時間ばかりの睡眠ですが、とても体調がいいですね。感情を喚起高揚させたのは、昨日の「シンポジウム 沖縄の詩の現在 詩人たちの島」の集い。報告者は、大城貞俊氏、中里友豪氏、宮城隆尋氏、天沢退次郎氏の各氏でした。1950年代の<琉大文学>から72年復帰までの詩と、現代まで、その表現について目からうろこの剥がれる熱い報告がありました。
大城貞俊氏の「(詩人の)状況に対する姿勢は倫理的姿勢である」という、文学表現のあり方への指摘は、なるほどとおもいましたし、中里友豪氏の報告した、大城立裕氏の<琉大文学>批判の内実は、議論を高めましたね。どんな具合かといいますと、新川明や川満信一らの展開した詩論・文学論というのは、社会主義リアリズムの受け売り流用であると指摘する大城立裕氏にたいして、中里友豪氏は、当時の雑誌の文章を引用しながら、反論する。
いわく、<琉大文学>で展開された新川らの状況に対する表現は、<批判的方法>であり、それを、<社会主義リアリズム>というプロパガンダの方法という言葉で規定しているのは大城氏自身である。沖縄の置かれた状況の中で、表現者が<批判的表現>の形をとらざるをえないことを、とらえて、社会主義リアリズムと批判するのは、本質を見誤っている、という。
で、とうの大城立裕氏自身は、<琉大文学>で批判対象となった現実に一言も批判しないのは、なぜか、中里氏は、大城氏が、文学者として暗に政治的な現実状況に目をつぶりつづけている、と指摘していましたね。そういえば、米軍兵士による婦女子暴行や殺人事件など、県民の怒りの爆発に対しも、なにもコメントは発しませんね。
こうした大城氏の発言をめぐる政治と文学の論争は、いまだに新聞コラム欄をにぎわしているそうです。
そんなハードで、デープな、熱い文学者の表現論が議論されました。沖縄では、まだまだ文学が、いきいきと、現実のものとして状況と切り結んでいるようですね。