朝5時00分 起床
気温華氏72度、22℃、夜明け前は、すずしい風が吹いていますが、日が昇ると同時に、気温は、ぐんぐん、上昇しますね。暑い。猛暑。
つーか、残暑きびしーい、という感じ。そろそろ土用波がたって、くらげの発生する時期ですよね。職場の前の海に浮かぶ猿島で、海水浴を楽しんでいる若者も、例年になく、短い夏を堪能しているような白い肌が目立っています。きょうの横須賀は開国百年祭のイベント日、打ち上げ花火が夜空を飾る予定です。
毎年のことながら、花火見物は、職場のある海辺の事務所が、特等の観覧席なのですが、帰りの混雑を想像すると、ぐったり・うんざりしますので、ちょぼちょぼ人間は、とっとと退散して、クーラーの利いた部屋でビールを、ぐっと飲んでいます。
街場の喧騒を離れて、一人、頭の中に花火を打ち上げます。
どんな花火かといいますと、こんな花火です。
考えてみると、(突然ですが)人間は、進化を止めてしまったのではないでしょうか。
そういう花火です。ビール片手に、ぐっと飲んでいるその酔眼の頭に、、生命活動の機能的な側面が、止まってしまった人間を想像します。
バブルがはじけた1990年ごろを境に、その後に生まれた世代は、もう15歳です。そして、第一次オイル・ショック後にうまれた世代が35歳前後、東京オリンピックを知っている世代は50歳以上、大阪万博を記憶している世代は、40歳代、日本が戦争していたことを知っている人々は、70歳以上。そんな色とりどりの花火が打ちあがります。
ちょぼちょぼより一回り上の、団塊の世代は、窮乏と、ひもじいしさを知っている世代。
しかし今の人口構造では、50歳を境に、生活の窮乏や、ひもじさを知らない世代が圧倒的に多くなっています。経験として窮乏を知らない世代が、過半数に達しているようです。
同じようなことは、お隣りの国、韓国でも、台湾でも、状況は似ているだろう。
世代として、いまこの世代が直面している<喪失した経験>とは、いったい何だろうか。
そう問題を設定して考えてみると、面白いかも。ちょぼちょぼ人間なら、すぐに価値観の多様性と、質の変換を云々してあげられるでしょうが、それ以前に、喪失経験は、生命の内的動機の段階から根本的に失効しはじめているのではないか。
たとえば、子供が言語を獲得しだす2歳ごろの生成文法の構築段階から。生得的にそなえているはずの普遍文法が、経験として喪失しつつあるような。