朝4時50分 起床
気温華氏69度、18℃、朝かすみの中、富士山が見えました。チョ-久しぶりの姿ですね。真っ黒の雄姿、だんだん秋が深まってくるにしたがって、よく見えるようになります。
さて、このごろ考えるものの中に、文学的な思考と、科学的な思考というのがあります。べつに今に始まった考えではないですが、学生のころ蔓延していた理系、文系の二分法が、あんまり当てにならないなあ、そんな分け方だなあ、と思うようになりました。
この理系・文系の体系分けの俗説は、いまだに一般に流布していますね。人を仕分けするのによく使われています。この人間の仕分けの仕方、樹木にたとえるなら枝葉が、横に広がっている状態の密集を分けるのに便利な概念です。多くの人間を、学校教育の体系で仕分けして見せるあり方ですね。
しかし、この仕分けでは、手に負えない、科学の問題が出てきました。コンピューターの出現で、ソフト開発のアイデアという問題です。今流行の「脳の現象」の問題は、これを象徴的にあらわしているのだろうと思いますね。
さて、従来の人間の仕分け方の概念が揺らいできましたので、ここで改めて樹木にたとえるなら幹に当たる概念が問われます。それが自己責任という、概念です。相対主義の中に、主観的責任論を偽装した概念ですよ。
言い換えると、主観主義の中に相対化の問題があったのですが、これを客観主義の中で否定さていた主観に、責任を伴わせた概念です。主意主義まで立ち返って考えると、公の消滅の今日的な意味があらわれてくる。「テロとの戦い」というのは、ほんとは分配と再配、貧困から発するものだけでなく、この文明国の中に再生産される思考暴力のことなんでしょうけどね。